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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:私は死なない)

私は死なない

2023/10/12 18:16

このQ&Aのポイント
  • 死後の世界が無いとするなら、私は私の死を自覚することができないため、私にとって私の死は存在しない。
  • 死後の世界があっても私は死んだことにはならない。
  • 死後の世界があってもなくても私は私の死を経験することはできず、死ぬのは他人だけであるという結論になる。
※ 以下は、質問の原文です

私は死なない

2012/05/17 23:38

死後の世界は無く、死んだら無になるとするなら、
私が私の死を自覚(確認)することが出来ないので
私にとって私の死は無いという事になります。

死後の世界があったとしても
私の死を確認している私がいますので
私は死んだことにはなりません。

死後の世界があってもなくても主観的に見て私は私の死を経験することはできません。
いつも死ぬのは他人ばかりです。

結局、主観的にみると私は死なないという結論になりました。
シニアの諸兄、理屈は正しいですよね?

回答 (18件中 1~5件目)

2012/05/18 19:16
回答No.18

もっとも内奥の存在は不死です。

お礼

2012/05/18 23:52

ご回答ありがとうございます。

そうかもしれませんね。

質問者

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この質問は投稿から一年以上経過しています。
解決しない場合、新しい質問の投稿をおすすめします。

質問する
2012/05/18 17:39
回答No.17

「>死後の世界は無く、死んだら無になるとするなら、
>私が私の死を自覚(確認)することが出来ないので
>私にとって私の死は無いという事になります。」

と言う事ですが、「私の死の自覚」が死後の結果としてしか自覚出来ないのであれば、正しいでしょう。
しかし、人には、予知能力もある事ですから、死の直前、その瞬間に自覚しているという事は無いのでしょうか。
死の瞬間まで、脳が正常に働いていれば、自覚出来るのではないかと思うのですが。。。

また、
「>死後の世界があったとしても
>私の死を確認している私がいますので
>私は死んだことにはなりません。」

と言う事は、「>私の死を確認している。。。」のですから、「私は死んでいる。」のでしょう。
「私の死を確認している私がいる」世界、死後の世界は、この世の世界ではないのですから、「この世では」、死ぬという事になるでしょう。
そして、ピラミッドやアルプス等で発見されたミイラでも、数千年後の今になっても蘇らないのは、周知の事実ですし、「死」は、この世の出来事なのですから、「私は死なない」という命題は、受け入れ難いのではないでしょうか。

お礼

2012/05/18 19:07

ご回答ありがとうございます。

>この世の世界ではないのですから、「この世では」、死ぬという事になるでしょう。

何をもって死とするかですよね。
生命活動の停止を「死」とするなら、あの世で自分の死を確認することが出来ます。
しかし、私たちが問題にしている「死」はかならずしも肉体の死ではないと思います。
私たちがこれほどまでに死を問題にするのは、死とは家族や友人との永遠の別れを意味し、また自分自身が積み上げてきたアイデンティティー(経歴、経験、財産、ステータス、理念なども含めて)とも決別しなければなりません。
これが辛いのです。
むしろ体のことは二の次ではないでしょうか。
肉体の死が精神の死と直結しているからこそ私たちは肉体の死を恐れるのですが、実際は心理的な死のほうがはるかに恐怖です。

>予知能力もある事ですから、死の直前、その瞬間に自覚しているという事は無いのでしょうか。

死の予知はあくまで連想であり、それは記憶の産物ですから死そのものではないのではないでしょうか。
死を経験することが果たしてできるでしょうか。

質問者
2012/05/18 16:19
回答No.16

こんにちは^^

死っていうのは、
産まれてくる前と、同じ状態になるだけじゃないですかね?

お礼

2012/05/18 18:50

ご回答ありがとうございます。

逆に、死の状態(生まれる前の状態)とはどんなものでしょう?

質問者
2012/05/18 16:16
回答No.15

この年になると真剣に考えされる問題です。 うううう~ん

お礼

2012/05/18 18:47

ご回答ありがとうございます。

思考実験ですから気楽に気楽に

質問者
2012/05/18 13:26
回答No.14

 
 理屈か経験か ~ 哲学は実学に及ばず、実学は哲学を生まず ~
 
 手術のための麻酔を経験すると、数時間の記憶が、すっぽりと欠落し、
その間ほんとうに生きていたという実感が失われます。
 自分を置いてけぼりに、世の中の現実だけに時間が経過したのです。
 
 ニュートンのような理論物理学に対し、ガリレイのような実験物理学
があります。実験は、いつでもどこでも誰でも経験できるのが条件です。
 どっちが尊重されるかといえば、もちろん実験物理学です。
 
 ケプラーのような理論天文学に対し、伊能忠敬のような観測天文学は、
うむを言わせぬ説得力があります。ケプラーの推理に矛盾が生じたので、
いまのところ楕円軌道という仮説で、ようやく面目を保っています。
 
 パスツールが、カイコの生態について教わるため、ファーブルを訪問
したとき、ファーブルはパスツールのあまりの無知に驚いたそうです。
 病気のメカニズムについては、ファーブルよりも知っていたのに……。
 
── どちらも、自分の見聞が、他人の見聞より確かだと主張する。
http://q.hatena.ne.jp/1330060801#c233515
 論点整理 ~ 右傾帰脳 vs 左傾往悩 ~
 

お礼

2012/05/18 18:45

ご回答ありがとうございます。

どちらが偉いとかではなくそれぞれが必要で、車輪の両輪として機能するものだと思います。

質問者

お礼をおくりました

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