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日本人にとって桜が特別な理由とは?
2023/10/14 15:17
- 桜が特別な理由は、日本の四季折々の美しい風景を楽しむためです。
- 桜は春の象徴であり、新たな始まりや希望を象徴しています。
- また、桜の花は短い間しか咲かないため、その ephemeral(はかなさ)が日本人に共感を呼びます。
回答 (8件中 1~5件目)
>桜だけは特別ですよね。
桜が特別扱いになったのは京都朝廷や秀吉などの権力者が持てはやした影響です。
現在の桜の下で飲食する習慣とは発祥や由来がやや異なります。
天皇が宮中行事を行う紫宸殿の前に桜と橘が植えられています。
これだけでも桜が特別扱いの花木だったということです。
元々は桜ではなく梅が植えられていました。
仁明天皇の時代に桜に変えられました。
嵯峨天皇(在位809年~823年)自身が桜を好み、桜を愛でる会を開いていました。
嵯峨天皇が退位した後も「花宴の節(せち)」という宮中の年中行事とされるようになりました。
これによって皇族や公家にとっては桜が天皇が好まれる特別な花木になりました。
鎌倉時代には宮中の花宴の節に殿上人となっていた武家層も加わるようになりやがて上流社会でひろく行われるようになりました。
公家層が花を愛でるだけだっったのに対して武家層は飲酒飲食をしていました。
武家層の様子を兼行法師が徒然草に都を知らない田舎者と書き残しています。
戦国時代になると秀吉が自分の権力を誇示するために吉野に1000本の桜を植えて5000人の武将を集めて花見の会を開きました。この結果現在でも吉野がお花見のメッカになっています。
秀吉はこれだけではなく更に醍醐で盛大なお花見を開いていました。
身分にかかわらず参加することを認め飲食用に各地の名産品を持ち寄らせました。
この中に当時高価だった砂糖を使った甘い団子などがありました。
これが花より団子などと言われるようにお花見にはお酒だけではなく甘いものが食べられるようになった始まりと言われています。
江戸時代に入ると家光は上野寛永寺の境内に桜を植えましたが、ここで飲食というわけにはいきませんでした。
吉宗が隅田川の堤防に桜を植えたり飛鳥山に植えたりして庶民が心置きなくお花見ができるようにしました。
将軍様が支度してくれた特別な娯楽という位置づけになりました。
お花見には歴史の節目節目に権力者がからんでいます。
結果として無意識の内に桜が特別扱いの花木となりました。
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後付け
花は桜 人は武士・・・ずいぶん古くからある言葉ですが 桜の花のように散ることが望ましいと言う意味ではありません。そのため 家紋には桜の花はありません。簡単に散って お家断絶では困るからです。
第二次世界大戦になって 兵士を使い捨てするために 新しい解釈を持ち出したのです。それまでの戦争とはけた違いの戦死者が出ています。前線に出ることは死を意味するようになってしまったのです。そこで喜んで死にに行くような兵士を大量生産しないといけなくなってしまったのです。そこで軍歌に桜を謳う歌詞が作られていったのです。
先日NHKのチコちゃんに叱られるで言ってましたが、あの番組を
見てませんか。
あの番組でチコちゃんが言ったのは、サクラのサは田んぼの神様を
言い、クラは神様が鎮座される事を意味すると言ってました。
昔は今のように時計もカレンダーもない時代でしたから、田植えの
時期を知る事が難しいといわれてました。
稲の苗を植えるためには、気温が15度以上でなければ苗が育たな
いと言われ、桜の咲く頃が大体気温が15度程度になると言われて
ました。
その頃に山から田んぼの神様が降りて来られて、桜の木の下に鎮座
されるとされているとチコちゃんは説明していました。
あの時のテーマは花見で、どうして花見でドンチャン騒ぎをするの
かと言うのが問題でした。本来は田んぼの神様が鎮座されている時
に、農民が神様にお供えをするのが決まりで、その時に食い意地の
汚い輩が勝手にお供えした酒や料理を食べて騒いだのが花見の始ま
りだとチコちゃんは説明していました。
他にも諸説があるようですが、上記に書いた事が正しいのではない
かと言われているようです。
うちの団地の空き地に桜並木を作ったら、きれいに花が咲くようになりました。そうしたら住民の大反対が起きて全部伐採しました。日本人の桜好きなんて嘘っぱっちの空想です。日本人は桜が嫌いです。テレビが煽っているだけです。
諸説ありますが、庶民が花見を楽しむようになったきっかけを作ったのが、暴れん坊将軍でおなじみの徳川吉宗といわれています。今も桜の名所として知られる飛鳥山公園に桜を植えて観光地として庶民に開放しました。
たまに時代劇でその庶民たちが今の飛鳥山公園で花見をする場面が作られますが、ひとつ大きな間違いがあります。それは、徳川吉宗の頃にはまだソメイヨシノがなかったという点です。
ソメイヨシノが作られたのは幕末だといわれています。つまり200年もないんですね。そして当初はソメイヨシノはすぐ散ってしまうのであまり人気がなかったといいます。
ソメイヨシノが日本全国に爆発的に普及したのは、戦後になってからです。戦後の復興と平和の象徴として、各地に植えられたのです。春になると一斉に満開になるソメイヨシノは平和の時代の象徴としてふさわしかったのでしょうね。
ソメイヨシノが満開になる時期と、年度末、即ち卒業と始業のシーズンがピッタリ合ったのも桜のイメージ向上に役立ったと思います。華やかな満開の桜は卒業に花を添え、儚くもすぐに散ってしまう様が卒業に伴う別れを象徴しているようにも感じますね。