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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:私ものを知らないので、そのせいか京都の街は中国のラ)

私ものを知らないので、そのせいか京都の街は中国のラ

2023/10/15 14:21

このQ&Aのポイント
  • 私ものを知らないので、そのせいか京都の街は中国のラクヨウの模倣と聞いたとたんに京都が全然素敵に思えなくなってしまいました。
  • 京都の街が中国のラクヨウの模倣という噂を聞いたことで、私の印象が一変しました。
  • 京都の街の美しさについて知らなかったため、中国のラクヨウの模倣と聞いて驚きました。
※ 以下は、質問の原文です

私ものを知らないので、そのせいか京都の街は中国のラ

2020/08/16 02:38

私ものを知らないので、そのせいか京都の街は中国のラクヨウの模倣と聞いたとたんに京都が全然素敵に思えなくなってしまいました。
おかしいですよね?

回答 (7件中 1~5件目)

2020/08/16 20:50
回答No.7

西洛や、洛西口の洛は、中国の洛陽とは違う気がする。

昔は西安をモチーフに造られたという話も聞くし。

韓国ソウルの街は、明朝です。

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2020/08/16 18:09
回答No.6

寿司は太平洋を渡り、カリフォルニアロールとなりました。
最近は、イギリスで「カツカレー」がブームなのだそうです。ところが「カツカレー」という言葉が独り歩きし、カツがのっていないものも「カツカレー」と呼ばれる始末(要はカレーだと全部カツカレー扱いらしいです)。しかもイスラム教徒への配慮から、カツはチキンカツがスタンダードで、ココナツミルクが入ったタイ風カレーが多いそうです。

もしアメリカ人が「カリフォルニアロールは独自のアメリカ食で、寿司は関係ない」とか、イギリス人が「我々のカツカレーは日本からの影響は受けていない」といったら、我々はフフン、と鼻で笑うことでしょう。

けれどもカリフォルニアロールにしてもイギリスのカツカレーにしても、何千キロあるいは何万キロもの距離を経ると、独自の進化をしていくのはこれまた当然のことだと思います。寿司やカレーライスを、彼ら流に解釈して自分たちの文化にしたといっていいでしょう。

京都の街並みも同じことです。もちろんモデルとなったのは中国の都市ですが、それを作った人々はオリジナルの中国の町を見たことがないわけですから、そこは自分たちの独自のアレンジというかそういうものは入って、それが長い年月を経ることによって独自の文化となってゆくものですね。

まーそういうことをいうなら、戦後の日本の近代都市や文化はほぼアメリカの模倣といっても間違いではないです。みんな洋服を着ていますが、欧米人のまるまる真似をしているわけじゃなくていわゆる「Kawaii」ファッションを始めとして日本独自のアレンジをしたファッション文化もあるわけです。

蛇足:
音楽的には、演歌ってロックの分野に入るそうです。確かに宇崎竜童さんを始めとして、ロック出身の演歌作曲者は少なくないですね。

2020/08/16 11:00
回答No.5

「洛陽」で画像検索してみるといいと思います。

旅行記
https://4travel.jp/travelogue/11171451
真ん中の少し下あたりに 博物館にある昔の街路の様子の立体模型も出ています。

2020/08/16 08:32
回答No.4

京都の町というより京都市街の前身である平安京は洛陽や長安を模倣して作られたと言われています
平安京の計画の大枠(平面計画)は基本的に(当時の、アジアの圧倒的な大国、先進国であった隋・唐の)長安城を手本としたものであり、またやはり長安を模した日本の平城京を踏襲したものでもあり、(大きな枠組みとして)条坊制を採用しており、つまり都市全体が四角形で、左右対称で、街路が「碁盤の目」状に整然と直交するように設けられ、政治の中心となる場所も左右対称の中心に置かれるものであり、平安京の場合は、市街の中心に朱雀大路を南北方向に配置し、政治の中心となる大内裏は朱雀大路の北の端で都の北端に設けられ、朱雀大路の左右は左京・右京と呼ぶことに決められた(「左・右」はあくまで内裏側から見ての左右である)。ただし手本となった長安城のほうは羅城(=都市を囲む城壁)で囲まれていた(当時、中国であれヨーロッパであれ、主要な都市というものは、外敵の侵入を防ぐために城塞で囲んで城塞都市とすることが一般的であった[5])のに対して、日本の平安京のほうでは南側の壁、羅城門(=朱雀大路の南端に位置し言わば「正面玄関」にあたる門)の左右、を除き羅城は造られることはなかったと考えられている(その結果、城塞都市とはいくらか異なった、都市と周辺域との関係性ができた[5]。これは世界的に見ると、一都市としての平安京の特徴のひとつである)。
この地の選定は中国から伝わった陰陽道(風水)に基づく四神相応の考え方を元に行われたという説もあります。平安京の範囲は、現代の京都市街より小さくて応仁の乱の最中に平安京の大部分は灰燼に帰してしまったが、豊臣秀吉の新都市建設によって今日の京都へと発展した。平安京は現在の京都府京都市・京都市街の前身であり、(建築物の大部分は途中で失われてしまったわけであるが)平安京の街路の構成は、おおむね現在の京都市街の主要な街路構成として現存しています。

2020/08/16 06:40
回答No.3

こんな話もあります。中国から京都や奈良を訪れる観光客の中には、「中国では失われてしまった古代中国の面影が古い寺社などに残っているのを見て喜ぶ人」が少なからずいるというのです。もちろんそれなりに自国や日本の歴史についての知識・教養がある人なのでしょうけれど、隣国と昔から密接な交流の歴史があったことが、現代の観光客誘致にも役立っているのです。

古代の日本は遣隋使・遣唐使の歴史でも明らかなように中国から多くのことを学んでいます。都(みやこ)の作り方にしても、その学んだことを咀嚼して、単なる模倣ではなく日本の風土(建設地の事情)に合うようにアレンジして作っています。

内藤湖南という昔の学者が、中国の文化が日本に与えた影響について「豆腐を作る際のにがり」のようなものという、独自の比喩で説明しています。豆乳だけでは豆腐になれないが、にがりが加えられることによって「豆腐になる力」が発揮されるというのです。にがりを加えられたことで豆腐が素敵でなくなるか、そんなことはないと思います。

お礼をおくりました

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