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大正7年シベリア出兵の「非戦闘員」とは
2023/10/12 19:38
- 大正7年(1918年)11月4日、陸軍省の調査によると、シベリア出兵には戦闘員42,200人と非戦闘員16,400人の計58,600人が動員されました。
- 非戦闘員とは、戦闘任務に従事しない人たちのことです。
- 例えば、看護婦なども非戦闘員に分類されます。
大正7年シベリア出兵の「非戦闘員」とは。
2016/12/30 19:51
大正7年(1918年)11月4日の陸軍省の調査では、計3個師団約58,600人を動員しています。
内訳は、戦闘員42,200人、非戦闘員16,400人、計58,600人です。
非戦闘員とはどんな人たちですか。
例えば、看護婦がそうですか。
米国への正式な報告では、非戦闘員も兵員数に入れています。
よろしくお願いします。
「ロシア革命の貨幣史 シベリア異聞 シベリア出兵」
このサイトの中ごろに、大正7年(1918年)11月4日の陸軍省調査の兵員数があります。
その他の回答 (18件中 16~18件目)
No.2でのURL二つは苦肉の策でした。
一つは外交文書の一部とは言え、何しろ、その中味と言えば、
●コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E9%9D%9E%E6%88%A6%E9%97%98%E5%93%A1-119915
と同等の内容に過ぎず、残念ながら一般論の域を出ません・・・
「1918年11月当時の個別具体的な人数内訳を示すべし」との
御言葉が聞こえてきそうです・・・(笑)
実は<アジア歴史資料センター>内の当初の派遣軍(概ね陸軍第12師団、
第3師団、第7師団等に隷属)の一覧表、人員表等があれば
「非戦闘員一六、四〇〇名(あるいは二七、七〇〇名)」の内訳が
概ね判明するのではないかと安易に考えていましたが、
バラバラの一部の断片情報はあれど事は上手く運びません。
例えば「衛生部員」に着目してみましても、
下記から「4836名(=衛生部員4688名+薬剤官・磨工長・磨工卒148名)」
が浮かびますが標題の「大正9年11月以後」が示すとおり、
どうやらこれは、撤兵に至るまでの数値なのか、
残念ながら「1918年11月当時」には直結しません。
○[標題]西伯利出兵衛生史(続篇)第1巻 衛生勤務 大正9年11月以後
[階層]防衛省防衛研究所>陸軍一般史料>戦役>西伯利出兵
[レファレンスコード]C13110186400
上記のうち
●[件名]第9篇 衛生部ノ人事及行賞
[レファレンスコード]C13110187600[画像数]24
https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C13110187600?IS_KIND=summary_normal&IS_STYLE=default&IS_TAG_S1=iFi&IS_KEY_S1=F2013112711514763118&
[1-2/24]
第九篇 衛生部ノ人事及行賞 第一章 人事 第一 人員
西伯利事變ノ爲西伯利、北滿州、北部沿海州及薩哈嗹州ニ派遣シタル衞生
部員ハ四千八百三十六名ニシテ動員 ─<中略>─
衞生部人員表 ─<中略>─
派遣 計 四、六八八(一四八) [※4688+148=4836]
─<中略>─
備考 五、本表外補充兵役輜重輸卒及歩兵ニシテ看護學ノ教育ヲ行ヒ出征
部隊ノ衞生勤務ニ服セルモノ二七九名アリ
─<中略>─
七、()ハ藥劑官、磨工長、磨工卒ヲ示ス
そこで全体ではなく一部に限定してみました。
>例えば、看護婦がそうですか。
もちろん、看護婦は非戦闘員に相違ありませんが、
当時は外地勤務の看護婦は稀な時代のはず。
○「欧州に派遣された「女の軍人さん」:
日赤救護班と第一次世界大戦/荒木映子」
『人文研究:大阪市立大学大学院文学研究科紀要 64/2013.3』(p.5-35)
http://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/il4/meta_pub/G0000007repository_KJ00008388279
シベリア出兵に際し「1918年11月当時」外地勤務の「看護婦」の有無に
関し、僅かですが、下記から手懸かりが浮かびました。
●「1910年代における日本赤十字社の救護看護人:
近代看護史のなかの男性看護者(6)/山崎裕二」
『日本赤十字武蔵野短期大学紀要 12/
日本赤十字看護大学/1999』(p.92-122)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000033878
[19/31](110頁表5・表6を別にして左側12-16行目)
(※1918年7月)22日陸軍より救護班派遣の認可と指令を得て、
ただちに救護員の召集を行い、26日救護班勤務心得を医長に交付し班員
一同に社長諭告がなされた。ただちに救護員の一部(医長ほか10名)は先発
し、残りは8月2日に出発した(『社史続稿・下巻』p.486-p.501.)。
[19/31](110頁表5・表6を別にして右側4-10行目)
東部シベリア派遣臨時救護班の編成は、医長1名、医員6名、調剤員3名、
理事1名、書記6名、看護人長6名、看護人61名(うち1名は磨工)、通訳3名、
厨夫10名、雑役夫9名の合計106名であった(通訳・厨夫・雑役夫は必要に
応じ派遣先で雇用することができた)。この編成は、患者300名を収容する
病院を設立することを目的としたものであった。
[20/31](111頁右側35-38行目)
このように第1次派遣臨時救護班の業務が多忙になったため、
日赤は第1看護婦組織臨時救護班と第2同班を増派することにした。
そのウラジオ到着は9月30日とlO月末であった。
上記「東部シベリア派遣臨時救護班」の内訳数は明記されていますが、
(「東部シベリア派遣臨時救護班」を含め)
「第1看護婦組織臨時救護班」「第2同班」の内訳数は下記官報で確認出来
ます。
●『官報.1918年08月02日/大蔵省印刷局[編]/日本マイクロ写真』
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2953913/7
[7/27](37頁上段27?-32?行目)
◎日本赤十字社錄事
救護員派遣 日本赤十字社ハ今般露領東部西伯利ニ於ケル聯合與國傷病者
救護ノタメ左ノ如ク救護員ヲ派遣スルコトヽ爲リ一行ノ内一部ハ去月二十
六日東京出發同二十七日敦賀ヨリ乘船シ殘餘ハ今二日東京出發明三日敦賀
ヨリ乘船ス(陸軍省、海軍省)
一 救護醫長一人/一 救護醫員六/一 救護調劑員三/一 救護理事一/
一 救護書記六/一 救護看護人長六/一 救護看護人六一/一 通譯三/
一 厨夫一〇/一 雜役夫九/計 一〇六
●『官報.1918年10月03日/同前/同前』
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2953965/4
[4/18](63頁下段34?-39?行目)
◎日本赤十字社錄事
臨時救護班增派 曩ニ露領東部西伯利ヘ派遣シタル日本赤十字社臨時救護
班ハ目下浦潮ニ病院ヲ開設シ其一部ハ哈爾賓及海拉爾ヘ分派シテ傷病者救
護ニ從事中ナルカ戰況ノ發展ニ伴ヒ漸次患者增加ノ狀況ナルヲ以テ今囘增
援トシテ救護醫員一人、救護看護婦長二人、救護看護婦二十人、計二十三
人外ニ使丁一人ヲ以テ編成セル第一看護婦組織臨時救護班ヲ浦潮ヘ向ケ增
派スルコトヽ爲リ一行ハ去月二十七日東京出發同二十八日敦賀ヨリ乘船シ
任地ニ赴ケリ(陸軍省、海軍省)
●『官報.1918年11月01日/同前/同前』
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2953988/5
[5/18](8頁上段4-8行目)
◎日本赤十字社錄事
臨時救護班增派 日本赤十字社ハ今囘更ニ在浦潮日本赤十字社救護班病院
勤務ノタメ救護醫員二人(内班長一人)、救護看護婦長二人、救護看護婦
二十人、計二十四人、外ニ使丁一人ヲ以テ編成セル第二看護婦組織臨時救
護班ヲ增派スルコトヽ爲リ而シテ本班長一人ハ先發トシテ去月十八日東京
ヲ出發シ他ノ救護員一同ハ同二十五日東京出發同二十六日敦賀ヨリ乘船任
地ニ赴ケリ(陸軍省、海軍省)
ただ、時期的には間に合うタイミング(11/4)ですが、
果たして上記看護婦が「非戦闘員一六、四〇〇名」に含まれるか否かは
残念ながら裏付けが取れません。
これだけでは僅かの例で中途半端ではありますが 以上
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kouki-koureisya さん、こんばんは。
輜重輸卒です。これは馬とか車を使って、荷物を運ぶ人夫さんみたいなものです。
兵隊でもないので、かなり冷遇されていたようです。大部分は彼らだと思いますよ。ちなみに看護婦さんは兵隊さん扱いだそうです。
こういう人が、軍医さんなんかと銃だの剣だので人を殺すと、赤十字の名前に傷がつくと思いますけどね。
輜重輸卒
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%9C%E9%87%8D%E5%85%B5
従軍看護婦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%93%E8%BB%8D%E7%9C%8B%E8%AD%B7%E5%A9%A6#.E5.B8.9D.E5.9B.BD.E9.99.B8.E6.B5.B7.E8.BB.8D
お礼
2016/12/31 18:10
ご回答ありがとうございます。
「輜重輸卒」なんですね。
荷車や荷馬車で水・食糧、武器弾薬を運ぶのですから、兵員の3割前後にもなること、よく解りました。
お礼
2017/01/09 20:34
再度のご回答真にありがとうございます。
お礼が遅くなってすみません。
読めば読むほど分からない箇所が出てきて、なかなか理解できません。
「西伯利出兵衛生史(続篇)第1巻(大正9年11月以降)」の目次を見ますと、派遣した師団は、第13師団、第11師団、第9師団、第8師団、第15師団、そして「薩哈嗹軍」となっています。
ただし、これらの師団が同時期に全てシベリアの地にいたわけではないですね。
大正7年、当初派遣したのは、第12師団、第3師団、第7師団ですから、2年間に全て入れ替わっています。
およそ1年間ごとに交替したのだそうです。
また、戦時編成の1個師団は約2万人だそうです。
この人数のおおまかな内訳が分かればよいのですが、今のところ不明です。
しかし、出兵期間を通しての最大兵員数は72400人で、この数字は短期間のものですから、
58600人を基準にして考えています。
「非戦闘員即チ衛生、輸送補給、通信等ノ勤務ニ従事スル者」ということなので、
衛生部員4836名 (内訳 衛生部員4688名+薬剤官・磨工長・磨工卒148名)の数は、期間・時期がどうであれ多いに参考になります。
「他人の褌で相撲をとる」という俗諺がありますが、まさに今の私がそうで、Why-j-people様のご回答だけを頼りにし、自分では何も調べずにいる状況です。
まだまだ、理解できそうになく、続々と疑問噴出で、纏めるのに時間が必要です。
とりあえず近況をお知らせしました。